先日、僕の住んでいる地元・八王子のHUB(イングリッシュパブのようなお店)で飲んでいた時のこと。
外国の方と話が盛り上がって、気付けばチェロを手に取っていました(お店許諾済み)。
不安定な机と椅子の上で、まともに弾ける状態でもなく。
ハブで演奏始めたぬびたにえん。
大狂演!!!
外国人大喜び。 pic.twitter.com/n4MryGrSmr
— しんろく屋 しんえん10/3新宿御苑rosso (@scene6) September 26, 2019
その時、僕は「いま、音楽をしているな」と感じました。第2の故郷、イギリスに帰った思いでした。
その感情を整理して、まとめます。
巷にあふれる「音」と「サウンドスケープ論」
「サウンドスケープ論」という考え方がある。
今この記事を読んでいるそこのあなたへ。少し身の回りを見渡してほしい。あなたの周りにはどんな音があるだろうか?
例えばカフェなら「エアコンの音」「話し声」「グラスが割れる音」「カードをタッチする時のピピッ音」「店内BGM」……
どこまでが音で、どこからが音楽だろう?
それを考えるのが「サウンドスケープ論」。
僕はこれが結構好きで、よく音と音楽の境界線を考える。
そんな僕には時々、既存の曲やライブの音楽も「音」にしか聞こえない時があります。
「音」が「音楽」になる時
「音」が「音楽」になる瞬間は人それぞれだと思います。
僕はどんな「音楽」も否定するつもりはありません。
逆に言えばどんな「音楽」も否定されるべきではないし
僕のやる「音楽」も、あなたのやる「音楽」も否定されるべきではないと思う。
そのうえで僕は、アーティスト自身が子どものように純粋に楽しめるものを音楽だと考えています。
僕にとっては、無理した付き合いやら、立ち回りやら、忖度やら、経歴やら、そういうものが音より前に出たらもう音楽には聴こえない。
「音」からはその人そのものが透けて聴こえる。
上手い下手ではない、それに関係なく「におう」。
そして面白いことに、商業音楽人でも同人音楽作家でも「本当のトップアーティスト」からはそういうものが全くない。
「音を楽しむ」ことは「甘えること」にはならない
たぶん一昔前はそれが出来なくて、
「自分の好きな音楽をやる」ために払わなければならない代償があった。
ただ、今は自分でYouTube、Twitter、TikTok……何でも発信ができるようになった。
だからこそ、僕のように「自分発信で楽しくやろう」という音楽のやり方をすると
「それは甘えだ」という人がいる。
これについては断言しよう、それは違う。
心から遊んで楽しむために、僕は練習するし天狗にならないよう注意を払う。
その上で、何かを頑張るときも常に「もっと楽しくするにはどうしたらいいだろう?」を探している。
「そんなこと出来れば苦労しないよ!」って?
……だから苦労してそうなれるように頑張っています。
あなたの「音楽」は何ですか?
さて、これを読んで「こいつと音楽やるのは無理そうだ」と思った方がいるはずです。
色々なやり方があるし、何度も言うけれど「何を音楽とするか」は人それぞれだと思う。
歌い手を音楽と認めない人もいるし、なんなら、声優さんが歌うアニメソングを音楽と認めない硬派な方々もおられる(一昔前のウチの家族がそう)。
僕と合う合わないも、当たり前ですがもちろん自由です。
僕が音楽をやるには
②リスクはあっても、フリーランスでのびのびやる
2つの選択肢がありましたが、①は、単に僕の性格的な問題から諦めざるを得ませんでした。
②の選択肢だと、これは大変難しい。自分と合わない人とお付き合いする機会が増えました。
どうしようかと思い、そこでこれから僕はこうやって自分の考えを整理して発信することにします。
そのうえで合わない人を否定せず、スッ……と離れる。
いつかまた、ご縁があればとても嬉しいです。
日本人は昔から村社会意識なため、「自分と合わない」と考えると「裏切り者だ」として否定・永久追放したくなるクセがあるそうです。
でもそれって、叩いた相手を主役にするだけなので、僕は遠慮しておこうと思います。
皆様と、お互いの素晴らしい「音楽」を目指して、これからも進んでいきたいと思います。